2017.06.25 02:19田崎方規は山上家の大黒柱東北仙台の出で寡黙で決して自ら言葉を発しないが、彼は人間の根底的な部分をジット深く見つめていた。片や山上晧三の母親、賀世子もジット田崎方規を見つめていたが、彼女の判断は見事に慧眼をもって、姉、斗玖子と結婚させた。様々な軋轢があったものの、これによって、山上家は、あの山王の森で、豊かな揺り籠として、成長して今も現存している。母親、賀世子の慧...
2017.06.22 21:57坂本繁二郎との出会い坂本繁二郎との出会い ロダンの「青銅時代」を肩にかついでいた時、 この70センチ程の像の重さは、私に戦時中 軽機関銃をかついでいた頃を思い出させた。 何と言う平和の尊さであろうか。 昭和27年の正月は、8日のブリジストン美 術館開館を前にして、昼夜平行で働いた。京 橋のブリジストンビルに、砂漠のオアシスと も言うべき美術館が開設され...
2017.06.21 09:56油彩画と裸婦クロッキー山上隆之輔は早大の美術史専攻で早大のアマトリアの創設者でもあり、小生もそのクラブへ何回か参加して裸婦クロッキーなど学習したことがあった。兄隆之輔は遠くから小生の行く先の道しるべとなったと、今にして思うと、生きている中にもっとももっと語り合いたかったと言う想いが募って来る。<続く>
2017.06.21 09:46隆之輔の伝言の中の様々なエピソード隆之輔の伝言は今後ますます面白くなる。日本語の特殊性を考えながら、殊に鹿児島の薩摩隼人や大阪住吉大社の流れの本流を書いて行く積りだ。父、栄は正枝と言う、住吉大社系統の義理の妹がいた。大社系統は美人系で彼女の風貌は姉、斗玖子の言を借りれば、大正ロマンの竹下夢二の雰囲気の持ち主だった。皓三も正枝に連れられて小2・小3の頃、大森池上通りにある新...
2017.06.21 04:43平塚西口診療所の人間力中越地震が起きた時、家内は脊柱管狭窄症で、余りの激痛で苦しんでおりました。我慢しきれず、手術を受けましたが、6カ月以上激痛に耐え、太陽に当たらないでいると、精神的に異常になると言う事があるようで、メンタルに異常を来しました。俗に言うパニック障害です。その時、娘の案内で平塚西口の診療所を知ったのですが、今回も特発性で、胸の痛みを訴え、御厄介...
2017.06.16 07:00坂本繁二郎との出会い坂本繁二郎との出会い ロダンの「青銅時代」を肩にかついでいた時、 この70センチ程の像の重さは、私に戦時中 軽機関銃をかついでいた頃を思い出させた。 何と言う平和の尊さであろうか。 昭和27年の正月は、8日のブリジストン美 術館開館を前にして、昼夜平行で働いた。京 橋のブリジストンビルに、砂漠のオアシスと も言うべき美術館が開設され...
2017.06.10 03:21熱海仙人風呂の御曹司浜田文一郎の愛称は文ちゃん。細身で色白、背丈は 180センチはあったろうか!小学校、中学校以来 縁が無かったタイプだ。 大森山王の拙宅に遊びに来た際、母親は面食らいだか ら、第一声が「素敵な子ね!」だった。姉は「あれが、 熱海の仙人風呂の御曹司なの!貴公子ぜんとしてい るわね」と家庭の話題をさらってしまった。 彼には四谷の叔...
2017.06.09 05:26集団疎開の語り部(その一)集団疎開のご利益で幼い晧三の性格は根底から変わった。親元を離れ一カ月目は仲間の何人かはホームシックに罹り、脱走した。朝起きると、「脱走」と担当の先生から合図があり、役所に連絡。直ぐさま、藤枝の駅の線路を東京方面に向かって歩いている所を連れ戻されると言う事件が何回か起きた。だが、小生、晧三にとって、盤脚院での集団生活は、逞しく、強くして呉れ...
2017.06.07 12:23集団疎開の語り部(そのニ)盤脚院は東海道線の藤枝の駅から2里程入った所にあった。山門を潜ってだらだら坂を潜って寺の境内に出ると、正面に本堂がある。昼間の自由時間はその境内で竹馬にのって遊んだ。 竹馬は自分で山から取って来た生竹と荒縄で工夫して作った。晧三はこの時期に二輪車の 自転車を覚えた。盤脚院の倉庫に転がっていた、タイヤのチューブも無い、スクラップ同然 の自...
2017.06.06 01:34集団疎開の語り部(その三)恩賜の煙草を頂いて明日は死ぬぞと決めた夜は荒野の風も生臭くぐっと睨んだ敵空に星が瞬く二つ三つ!この時代に生まれ合わせた少年達は、こんな歌を何時の間にか頭に叩き込まれ、言葉をついて歌ったり、踊ったり出来たのだと思う。 昭和16年から昭和20年の子供達は縁故疎開や集団疎開で日本列島の海から離れた山の中のお寺へ疎開させられた。海の近くは最初は...