集団疎開の語り部(そのニ)

盤脚院は東海道線の藤枝の駅から2里程入った所にあった。山門を潜ってだらだら坂を潜って寺の境内に出ると、正面に本堂がある。昼間の自由時間はその境内で竹馬にのって遊んだ。 竹馬は自分で山から取って来た生竹と荒縄で工夫して作った。晧三はこの時期に二輪車の 自転車を覚えた。盤脚院の倉庫に転がっていた、タイヤのチューブも無い、スクラップ同然 の自転車に荒縄を巻き付け、タイヤ代わりにして、ボロの子供用の自転車に何回もひっくり返帰り乍、乗っている中に、ひっくりかえらなく、走れるようになった。とにかく、ナイナイ尽くしなのに、どうにか遊びを覚えた。いつも、一緒に手伝った友人は山王の家の近くの、疎開へ行ってから、付き合い始めた、平野君と矢部君と、女の子の中野さんだった。いい塩梅に彼らも 二輪車の自転車には乗りたくって仕方のない仲間だった。何となく、同病合い憐れむの例え の通り、互いに引き合うものがあって、いつも行動を共にした。その頃、待焦がれていた三浦 英樹君は来なかった。 疎開前に姉、斗玖子から、喧嘩に強くなるように、取っ組み合いの練習をつけられたり、教育係のオバチャンから、ツルハシやクワを使って、防空豪を使えば、足腰が強くなるので、相撲に強くなれると言うので、一生懸命努力したお陰で、ある時、相撲大会で、ボスの肥土君をやっつけて以来断然学年で有名になり、遊びや喧嘩に自信を持ってしまった。子供の世界では 昔も今も腕プシは物を言うように思う。後になって、武力の無い外交は無い、等と言う言葉 に結びつけ、高学年になったら、柔道や空手や剣道は身につけたいとも思っていた。 相撲大会でボスの肥土君をやっつけて以来、矢部君が「山上(その頃のニックネームはコゾウ さんだった)見たいな奴が本当のニッポンダンジ(日本男児)と言うんだな!)と言っておやつ のサツマイやミカンを半分位、・・・・コレアゲルよ、食べてクレヨ!と言って、差し入れをして 呉れるようになった。 爾来、あちらこちらで、諍いがあると、積極的に出て行って、仲裁したりし始めた。自信と言うものは怖いものだ。グルを組んで、裏山へ、グルを成して、ミカン狩りもしたものだ。盤脚院と言う寺は、大きなみかん山を背負っていた。 <集団疎開は続きを書きます>

0コメント

  • 1000 / 1000