集団疎開の語り部(その三)

恩賜の煙草を頂いて明日は死ぬぞと決めた夜は荒野の風も生臭くぐっと睨んだ敵空に星が瞬く二つ三つ!この時代に生まれ合わせた少年達は、こんな歌を何時の間にか頭に叩き込まれ、言葉をついて歌ったり、踊ったり出来たのだと思う。 昭和16年から昭和20年の子供達は縁故疎開や集団疎開で日本列島の海から離れた山の中のお寺へ疎開させられた。海の近くは最初は太平洋岸が危なくなり、やがて日本海岸へ移動した。静岡の藤枝の盤脚院も空襲警報が頻繁になり、富山の氷見の光學寺へ再疎開をした。 静岡盤脚院もB29がグオーン、グオーンと不気味な爆音をたててやって来た。ある晩は空襲警報のサイレンとともに、避難命令が出て、防空頭巾を被ってお寺の本堂に伏せて目と耳を指で抑えて避難したりした。 シュルシュルと音がして、真夜中なのに、昼間のように明るくなり、直後に物凄い、地響きがして、焼夷弾が落下した事が確認された。目と耳を抑えていた手を放すと、どうも近くの藤枝の茶畑に落ちたと知らされ、翌日先生の指導で焼夷弾が落ちた現場を見に言ったものだ。 太平洋岸が危なくなって来たので、翌年昭和20年5月には富山の氷見へ再疎開をする事になった。 小4の8月から集団生活に入って年度が変わって小5に変わって、一年上の小6は全員それぞれ実家へ引き取られたのか盤脚院から居なくなってしまった。だから、富山の氷見の飛び込んで光學寺では小5が最年長にとなった。集団生活に慣れた事もあって、人との接し方や、感じ方も少しは大人になった訳だが、氷見のお寺の光學寺での生活は、静岡と違って、かなり慣れて来た。氷見の地元の小学生とも、かなり前向きに付き合うようになった。忘れ得ぬ友人に毎日光學寺へやったて来るお兄ちゃんがいた。 その友人の名は「パンツお化け」。かれは、晧三にとって忘れられない友人の一人となった。

毎日のように光學寺の境内に遊びに来た「パンツお化け」が或る夏の日に、底なし沼へ連れて行って呉れた。一緒に矢部君と平野君も行った。泳ぎも氷見の海で、以前よりも少しは上手になったが、それ程も無い。


「パンツお化け」は沼の近くの柿の木に登って、晧三が泳ぐのを、監視していた。小さな沼池だが、真ん中位まで、平泳ぎで出て行ったころ、つま先が沼底に絡まった。その途端に、足が攣って仕舞って、水をがぶがぶ飲んでしまった。「助けてくれ!」と声を出そうにも、水をガブガブ飲んでしまって、声が出ない。その時「パンツおばけ」が大きな柿の木から、ザンブとばかり、飛び込んで、一気に近づいて、晧三の首に彼の腕を回し、横泳ぎで岸まで、連れ帰り助けて呉れた。この瞬間の喜びは

一生忘れない。この年になっても、ナマ生しく覚えていて、今でも「パンツお化け」に深々と頭を下げて、合掌するのである。


氷見の底なし河には雷魚と言う恐ろしい魚がうようよ居た。それを狙って、鷹が舞い降りて、雷魚とタカの喧嘩も良く見た。静岡の盤脚院の境内からは、トンビと蛇の喧嘩も見たが、どうも、氷見の出来事の方が、思い出す光景が多いようだ。







 挙国一致で子供達は軍国少年として仕立てらあれていた。 集団疎開経験者の語りベが語る教育論

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