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アリとキリギリス

「冬になって、穀物が雨に濡れたのでアリが乾かしていますと、おなかの空(す)いたセミが来て、食べ物をもらいたいと言いました。『あなたは、なぜ夏の間食べ物を集めておかなかったんです?』『暇がなかったんです。歌ばかり歌っていましたから』と、セミは言いました。すると、アリは笑って言いました。『夏の間歌ったなら、冬の間踊りなさい』

(河野与一訳『イソップのお話』岩波少年文庫)


アリもずいぶんとカッコいい台詞をはきます。『冬の間踊りなさい』なんて、ユーモアというのかアイロニーというのか、いずれせよ風情があります。ぜひ参考にさせてほしい鋭さがあります。

教訓を求めるとしたら「みんな、怠けてないできちんと働こう」なんてところでしょうか。



しかし、日本に普及している多くの物語は、これとは違う結末が待っています。

「さあ、遠慮なく食べてください。元気になって、ことしの夏も楽しい歌を聞かせてもらいたいね・・・・キリギリスは、うれし涙をポロポロこぼしました。」

波多野勤子監修・『イソップ物語』 小学館

めでたしめでたし。困っている人を助け合って最後はみんな幸せに暮らしましたとさ。あぁなんていい話だ。個人的な好き嫌いで恐縮ですが、僕はこの結末が嫌いです。

きっと「こんな残酷な話、子どもには聞かせられません!」とかなんとか言うヒステリックな偽善者が作り替えたに違いない。教訓は「困ってる人を助けてあげる優しい人になりましょう」でしょうか。虫唾が全速力で駆け巡ります。(すみません、これはただの偏見です)



さて、もう一つ。僕が知っている中で最も好きな結末は、また別のところにあります。

アリに断られ、セミは餓死するわけですが、実は、最後にもう一文だけ台詞がつくというものです。

すると、アリは笑って言いました。

『夏の間歌ったなら、冬の間踊りなさい』

すると、セミはこう答えました。

『歌うべき歌は、歌いつくした。私の亡骸を食べて、生きのびればいい。』



この台詞が物語を転換させます。アリ「ただ生きるために働きつづける」アリとなり、セミは「自分のやりたいことをやりつくしたのだから悔いもなくかっこよく生きた」セミになる。

最後に意地をはっただけかもしれない。ただの負け惜しみともとれる。でも僕はセミを馬鹿にはできない。どちらかと言えば敬意を抱く。



みなさんは、どの結末が好きですか? <<続く>>

幕末に田中汽船で稼いだ田中省三

幕末に田中省三と言う男がいた。鹿児島の出で示現流

の名手だったと聞いている。



西南戦争に義勇軍人として参加して、負けて傷ついた

仲間を背負って、故郷へ帰った。西郷隆盛と同じ位の

体躯の持ち主だったと聞いている。



晧三の父栄や兄隆之輔から、耳が痛くなる程、幼い頃

から示現流の田中省三に事は聞かされていた。

何時の間にか省三は、瘡蓋のように潜在意識

に定着してしまった。 晧三は昭和19年の集団疎開を堺にして、人間が

がガラリと変わってしまい、昔の事等全く興味

にない人格に変わってしまった。




ズーット後年に至る迄、省三は身体が大きくメッタ

やたらとチャンバラが強く、男ポイ奴だったのだ

位の程度に思っていた。  省三のヤシャゴに当たる正晃は小学校の歴史


の歴史の時間に、足尾銅山の渡良瀬川の田中正三と

勘違いして、晧三の倅の正晃は、


「たなかしょうぞう」

は僕の「オジイチャン」だと手を挙げて、大恥をかい

たと言っている。

田中正三は足尾銅山の渡良瀬川の猛毒の問題で

歴史の教科書にも残っているが、省三は教科書

に残る程でも無い。  省三は正三よりも少し新しく時代はずれているのだ。



いずれにしても、血筋は間違いなく、ヤシャゴ

の真喜子も正晃も田中省三の、血は争えないもので、

鹿児島の熱い血液は流れており情念は強い。



家内の玲子の系統ならば薩摩では無く寧ろ長州の系

統の様だ。


省三と正三を間違えて、「うちのお爺ちゃんだ!」

と小学校の授業の時間に手を挙げて、みんなに

笑われ大恥をかいた、省三のヤシャゴにあたる正

晃はやがて50才を超える。ヤシャゴの正晃

は司馬遼太郎のフアンで晧三とは真逆で

歴史はやたらと詳しく、家内の玲子はその影響

で日本史は詳しい。 省三の孫にあたる晧三は、好き嫌いが激しく癇癪

持ちは間違い無く省三譲り、話す声はやたらと大

きく、家内の玲子も耳が遠くなり、お互いの会話

は怒鳴り合いになり、近所では、心配になって、




「大丈夫ですか?」顔を出す始末。



資料を見ると、明治10年の頃の省三は教育者にな

る積りだったのに、ひょっとした、思い付きで田中

汽船を始め陸軍に、水を中国やロシアへ輸送する、


船舶の特需で、大儲けをして、財界を192センチ


の巨漢で名を売り、風雲児の名を我が物としたと言


うお話。元々省三は豪農で有力な網元で大金持ち

で、幼い頃から利発な子だったようだ。



後には衆議院議員になっていると聞く。




省三のヤシャゴに当たる正晃も、声は大きく、初

対面の人間は、びっくりして、もう少し、小さな

声で喋って欲しいと注文をつけられるという。




偶に、家に遊びに来た時には「なーんだ、テレビ

の音が大来すぎるよ!」と40の音を20位にする。

ヤシャゴの正晃は声は大きいが、耳は正常。





晧三と玲子は年を重ね難聴になり、テレビの音量

は40以上。20では、何も聞こえないのだ。





酸いも甘いも噛み分けた女性なら、正晃の奥底に

見える優しさを瞬時に理解し得ても、外見しか見

えない若い女の子には手に負えない堅物でしかな

い。 正晃の腹には一物も無く、底抜けの秋の空の

如く澄んでいる。老いも若きも心の澄んだ人間に

は正晃の優しさに敏感に捉え、彼と又合いたい気

持ちになってしまう。





決して、器用な男ではないが、自ら口癖のように

日本は「物作り」を忘れたら、やって行けない

のだと言っており、無垢の家具職人になり、この

道一筋に歩んでいる。





人の数倍時間を掛けるが出来上がったアンテイッ

ク調の家具は重厚感に溢れており注文は切らさ

ないから、或いは省三のDNAの一カケラが入って

いるのかも知れない。 米国の俳優クリントイーストウッドは家具職人

の出だったと聞いているので、そんな風になれば

良いかなと言うはかない期待もしている。





そう言う男も既に50歳の坂を超えるが、もう後

30年も生きて省三の孫の晧三と同じ位の年にな

れば、一時的な本能や衝動に左右されず、物事を

概念的、理論的に考える心の働きが出来るように

なると思うのだ。



全く短気は損気、喧嘩速いのは南国鹿児島の田中省三

の血が流れているのだから仕方あるまいと思う。 省三も栄も晧三も正晃も鹿児島の血は流れており

皆好き嫌いが激しく癇癪持ちのようだ。





だが、山を登り、ある高度迄登り詰めて、振り向いて

見ると、街の模様がくっきりと俯瞰できるようなもので、


年齢も80歳も超えると、歩いて来た人生の道のり

が俯瞰出来るものだ。



物心のついた生後4歳位の事柄がくっきりはっきり

見えるのでボケ防止に徒然なる侭に書いて見たい。 DNAと言うのは一体子々孫々の代まで伝わり、同じ

ような人格の人間が出来るものだろうか、否、決して

そうでは無く、寧ろ、住居環境だとか教育、人との

出会いの方が圧倒的に大きいもので、先ずは、直近

の栄の事を想いだして記述してみたいと思う。



栄は殊更、晧三の事を可愛がっていたように

思うので、栄の事にもう少し深入りして見たい。



栄は晧三の中に省三のDNAが一番濃厚だと

感じていたと感じていたらしく、兄、隆之輔

も省三の顔写真が晧三に似ていると言っていた

からだ。  さて、パールハーバーで始まった第二次大戦

が始まって、4年目の、小学校4年生、時は

昭和19年。


大東亜戦争も雲行きは悪くなって来たのに、

ラジオ放送は勝ち放しの話の景気の良いニュ

ースばかりだった。



だが、山本元帥の死の情報依頼、俄かに東京

を離れるクラスメートが多く、暗いニュース

は子供なりに肌で感じていた。





大田区、山王小学校(旧第三国民学校)の大半

は親戚へ縁故疎開で、他は集団疎開組で静岡の

藤枝の盤脚院と言うお寺へ送られることになった。  よいよ、出発の前の日、父親、栄が横浜の中華街

へ連れて行って呉れた。



あちらこちらの店を覗いて、父親の懇意にしてい

る店に入って肉団子を食べた。



その後、お別れの写真を撮った。その時の自分

の写真を覚えているが、ひょろひょろと青白く、

如何にも神経質そうで想い出すのも嫌だった。

とても、後日省三のあの野心的風貌とは似ても

似つかないものだった。



その日は残暑で蒸し暑い日だった。帰宅後、父親、

栄は行水をして、一服していると、騒ぎが起こった。
 アパートの一号室の台湾人が「火事だ!」大声を出

して栄の所へ飛んで来た。





アパートの玄関の大きなガラス戸の前に置いてあった

防火用の砂の箱を持ち上げ、ド近眼の栄は分厚い

アパートのガラス戸に突っ込んでしまった。ガラス

の破片が体中に突き刺さり真っ赤な血で染まって

しまった。





其の儘、オバチャンが近くの小山田病院に緊急入院が

させた。





「疎開出発の朝」

朝一番で、小山田病院へ栄の怪我の見舞いとお別れも

兼ねてオバチャンと出かけた。子供心に、事もあろうに

、こんな時に、なぜ昨日のような事件が起きたのか

悶々とした気持ちで父親、栄と会った。





「晧三、藤枝の駅から盤脚院迄は2理程あるが、トラック

で行く筈だが、振り落とされように、必ず真ん中に

乗るのだぞ!と言われた。子供心に納得した。





一緒に、行く筈だったたった一人の頼りになる三浦英樹

(後の読売広告の常務)は急性アレルギーの為、今回

は一緒に行けないと連絡が入った。当時、三浦英樹以外

に付き合いのある友人は誰も居なかったので、神経質

な晧三にとってこれ以上の心細い気持ちはなかった。    <<続く>>