田崎方規は山上家の大黒柱
東北仙台の出で寡黙で決して自ら言葉を発しないが、彼は人間の根底的な部分をジット深く見つめていた。片や山上晧三の母親、賀世子もジット田崎方規を見つめていたが、彼女の判断は見事に慧眼をもって、姉、斗玖子と結婚させた。
様々な軋轢があったものの、これによって、山上家は、あの山王の森で、豊かな揺り籠として、成長して今も現存している。
母親、賀世子の慧眼と実行力無しには、山上晧三の揺り籠は全く思いも寄らぬ、場所へ流動してしまったに違いない。と言うのは、兄、隆之輔はこの大切な揺り籠を売り飛ばし、パリへ引っ越しをしよう等と、夢物語を臆面も無く語る側面があった。兄、隆之輔は若気の至りで、その頃は欧米のバター臭い文化に憧れをもって、お熱だったようだ。そんな事には一切動じない母親、賀世子と姉、斗玖子は大森の山王の家を守り通した。なれど、一重にそれは田崎方規の大黒柱があったからだ。
田崎方規(マサキ)とは、兄弟の中で、小生と一番心を割って付き合って呉れた。大森駅の東口を海岸の方へ向かって、一直線に歩くと、右方向にお風呂屋があった。そこへ、方規さんと二人で通ったものだ。鳳神社の近くだった。帰りにアーケードの中の果物屋でリンゴを二人で丸かじりしながら、色々話あった。そんな時も人を誹謗するような話は決してしなかった。
大森の山王の屋敷の財源は父、栄の故人貿易の、ボリビアのタングステンの輸入の利益で作られたのだが、父親、栄の好きにさせて置けば、当時付き合っていた、大井の女に全額渡ってしまったろうと
言う事を後で知った。大井の女の話は隆之輔や斗玖子の話にしばしば登ったし、小生が4歳の時に、或る時、山王の家に、父親、栄が招き入れ、母親、賀世子と久子に食事を作らせ、屋敷の一番南側の10畳の部屋で2,3人の男客と宴会を設けたのを覚えている。4才の子供心にその光景は大変嫌な雰囲気だったのを昨日の如く覚えている。父親、栄は4才の小生を膝に乗せ「オッペケ節」を歌ったのを覚えている。
大井の女は白粉をベッタリと塗った顔にオチョボ口に真っ赤な紅を塗っていた。「子供の目映った彼女の顔はまるでオカメヒョットコ」だった。母親やオバチャンの普段の姿ではお目になった事のない、オシャレ姿なので、強烈な印象がづ脳にこびりついている。
その女とは終戦後も、父、栄は付き合いがあったようだ。
池上通りを大森山王口から、数キロの所に中央郵便局があり、線路際に、その頃「ゴミ箱横丁」言われた、一角があり、そこから、山王へ移ったのだから、まるで住居環境が変わってしまったのだから、引っ越しを大反対した、父親、栄にしても、この山王の屋敷を大井の女に見せたかったのだろうか、倅の、皓三を膝の上に乗せて、「オッペケ-節」をほろ酔い加減で歌った光景は、芝居の一齣と見れば、至って滑稽なのだ。よくぞ、御袋、賀世子とオバチャンは悔しさに歯を食いしばっっていたに違いない。当然兄弟皆は母親、オバチャンの見方をした。
新井宿の「ゴミ箱横丁」の頃、姉、斗玖子は女番長で張っていた様子で、兄の友人の桶屋の倅の次郎やひでちゃんを口先で振り回していたし、母、賀世子は、人を集め賑やかな宴会をするのが好きな性質で、クリスマスには、当時では珍しい輸出用の豆電球を部屋中に張り巡らせ、ケーキ等作ってドンチャカ騒ぎをやっていた。小生、晧三は近くの松田と言うが馬乗りになっていじめられたりした光景をこの年80歳を超えても覚えている。松田とは小学校一年生の担任の兵頭先生が山上の兄隆之輔の担任もやった事を最初の挨拶で伝えられ嬉しかった。いじめっ子の松田は廊下側、小生は窓側に広瀬と言いう優等生と二人並んで、座席は決まった。
<<<続く>>>
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