山上晧三の生い立ち
晧三は幼い頃から父親、栄から省三の話 は何度も何度も聞かされ育った。 「晧三のお爺ちゃんは身体の大きなお侍 だったのだぞ!お前も強く、大きく成るん だぞ!」時には散歩をしながら、又ある時 は添え寝をし乍ら」耳にタコが出来る程聞 かされて来た。 だが、物心がつく迄、強そうなお侍だった のだな!程度の感覚で心の底には響いて は居なかった。其のうちに、何時の間にか まるっきり忘れてしまい、娑婆にでて、仕事 に追われ、日々に起きる事柄を解決する 事に追われ栄の話など米粒の程も無くなっ てしまった。 やがて、娘が宮崎の男と縁が出来て、夫になる愛甲裕のご両親が宮崎の日南に住んでおり、ご挨拶で訪問した時、ご両親が車で鹿児島の省三の記 念館まで案内して下さった。 記念館の省三の写真を見て、ご両親が晧三 の顔にそっくりと言うので、成るほど、自分 にDNAの一滴が少しは入っているのかと、気 にかけるようになった。宮城県飫肥藩の小村寿太郎の写真と並んで 省三の写真が晧三に似ていると言うので、 流石の歴史音痴の晧三も少し気が動いた。 それ以来、時間が出来たら、田中省三の事 を調べて子供達いも先祖の事を確りと伝え 上げようと言う気持ちが出て来た。遠くにあ った、省三が急接近して来た。 元々晧三は歴史や社会科学や歴史等は不得手で、又文字を読む事も嫌いで新聞も字頭(じずら)を見るだけで、写真を眺め程度だった。 高校時代の親友、徳ちゃんに「お前新聞 位読めよ!」と言われたのを痛く想い だすが、本当に読書等嫌いであった。 殊に歴史が不得手で、早い話、坂本竜馬 も宮本武蔵も、織田信長も時系列がゴッ チャで、歴史の授業等欠伸ばかりしていた。晧三の幼い頃の興味は水の中に花粉を 浮かばせ、顕微鏡で見ると動く「ブラウン 運動」だとか、焼け跡からブリキを拾って きて、エナメル線で磁石を作っておもちゃのモーターを作ったり、又亜鉛と塩酸 で水素ガスを作って、シャボン玉に入れ て見たらシャボン玉が高く高く限り無く 登るのだ等、今の子供なら「バカ見たい!」と一笑に付すような事を真面目に考える 子供だった。竹の葉の尻尾に樟脳を付けると、水面 を走り回ること等面白くて仕方なかった。 ボール紙で機関車を作り、パンダグラフを ボール箱の天井につけて、ブリキで作ったモーター を取り付けて見たり、何かを作ると言う事 は好きだったが、文字を読む事には関心 が薄かった。 近所の子供に竹トンボを作ったり、ヤツデ の実を使った鉄砲を作ってやったりする 事には夢中だった。父、栄も母、賀世子も本当 に好き勝手にさせて呉れた。 だから、栄や隆之輔が省三の話などされても まるで馬耳東風だった。省三は192cm(資料では182センチが正しい)の大男で西郷隆盛をしのぐ巨大な体躯で、刃の使い手で示現流の名手だったと聞い ていて、そんな強い男にはなって見たいと と言う欲望はあった。 省三は18才の時、西南戦争に義勇兵とし て参加して傷ついた兵士を担いで故郷まで 帰った等、本当に身体の大きな、強そうな男 だったのだと言う気持ちは年と共に募って 行った。大学時代に柔道を止めて合気道の塩田剛 三の道場へ入門した時も武道を極めたいと 言う潜在意識はあったのだ。父栄は隆之輔と晧三には省三の話を頻繁 にして、姉,斗玖子と妹、冨久子には大阪 の住吉大社の久乃の話しかしなかった。 何故だろう?それも晧三の耳目を捉えた。 こんな事に年を取って少し余裕が出来ると 子供達に自分のルーツを伝えてやりたい 気持ちが出て来たのだ。 歴史音痴が手っ取り早く、鳥の目になって ルーツを見たくなったのだ。実父の栄は兄や姉や妹よりも小生を特別 大事にして呉れた。出来の悪い子だったので 或いはいとおしいかったのかも知れない。 例えば、桜咲く時期になると、上野の寛永 寺に連れて行って西南戦争の話等、数回話 して呉れた。結構、栄は、言われる程の 女癖の悪い男でも無く教育的だったに違いない。 あの火吹き達磨、大村益次郎の「豆腐」 の話等も面白可笑しく話して呉れたもの だ。 片や、その実父栄、に対して、長女の斗玖子 は厳しくお母親の命令で目付け役を飽きず に追求の手を緩めなかった。ヘビ年だから諦 めない。追及の手とは栄の女癖を管理する事 だ。その登久子も晧三の事を殊更可愛がって呉れた。 良く絵の無い、文字だらけの童話を買っ てくれたり、女だてらに、喧嘩に強くな るように取っ組み合いの相手をしてくれ たりしたものだ。母親,賀世子も晧三を良く外食に連れて 行って呉れた。大概は池上通りのガード を潜って大森駅の東口の白木屋の食堂だ った。今でも東急に名前は変わったが建 物は残っている。 昭和19年頃になると、白い米も少なくなり 賀世子は日本橋の三越へわざわざ,うな重 を食べに連れて行って呉れた。麦飯だった のを覚えている。昭和16年にパールハーバーの急襲以来、 アメリカを本気にさせ、大東亜戦争がはじ まり、3年も経つと庶民の食生活も乏しくな っって行った。 年を取ると、5分前の事は忘れても、遠い 昔の事は確りと記憶に残っているものだ。4歳の或る雨季に入る、どんよりとした 日、オバチャンに付き添われ、三輪車 を漕ぎながら、玉塚証券の大邸宅の前 に差し掛かった時、「何処へ行くの?」 とオバチャンに聞いたら。 今日から、違うお家にお引越しするのよ! と言われ、三輪車をグルッと向きを変え 中央郵便局の「ゴミ箱横丁」へ向かって 一目散に引返したのを覚えている。それ でも、オバチャンの説得で思い止まって 山王の家に辿りついた。雨季に入り周囲 の椎の木が生臭い臭いを発していた。山王の家の周辺は大邸宅ばかりで、引っ 越し先の家は「覇王樹の主宰の橋田東 声」が住んでいた、草ぼうぼうの100坪 もある邸宅だった。ゆうれい屋敷とも 言われていた。橋田東声とは歌人で 有名。 因みに、大森は文学の山王とか馬込とか 言われ尾崎士郎、室生犀星等、大森駅 の階段には石碑があるからお確かめ下さい。 引っ越し前の中央郵便局の裏の「ゴミ箱 横丁の家」とはまるで違い、ゆったりと広く 日中殆どは母親、賀世子と妹、冨久子の三 人きりで過ごす事が多かった。 母親,賀世子は晧三に綾取りとかお手玉 を教えて呉れた。 「イチレツランパン破裂して、日露戦争始まった」 「庭の千草」「英国の国家」等教えて呉れた。 山王、馬込周辺の子供達は殆ど、山王小学校 へ通った訳だが、その頃から、家庭教師を つけてお勉強には大変煩い所だった。 勉強のベの字も知らない、晧三は学校がど んな所かも知らなかった。 交番の直ぐ近くの「みこころ幼稚園」に通う 子供が多く、幼稚園グループが其の儘、山王 小学校へ一塊になって入学すると言う図式 だった。晧三は幼稚園には行かなかった。 何故か知らぬが、多分人見知りが強く 行けと言っても断じて「行く」とは言わなかった に違いない。 小学校一年生の、最初の通信簿を今でも、 鮮明に覚えているが不可、不可、不可が ずらりと並び、確か芸能と言う科目がたった一 つ優とあったのを覚えている。 だが本人は不可が悪いと言う事の意 味が分からず芸能が優と言う事がやたら と恥ずかしい感情を持ったのを覚えている。 お袋が「お前は、ラジオの音楽に合わせ、 踊りをするのが上手だったね!」と言う 言葉を想い出し、通信簿の芸能が「優」 だったのを思い重ね、その頃から男らし くありたいと思っていたのに、歌や踊り 等が得意だなんて恥ずかしいと心の底か らそう思った。子供心に「芸能」等、歌や踊りをやる なんて恥ずかしい女々しい事と決込ん でいた。栄の兄弟の有久、有近と言う 晧三の叔父に当たる男が、築地で女形 の役者だと言う事も時折、栄から聞いて いたので、芸能というと、その叔父の 事も重なって連想したのだと思う。 つまり、歌や踊りや築地の女形役者と繋 がる程度の理解力だったので「芸能」が 出来るなんて女々しいと言う感情が強く、 自分がいやでいやで仕方が無い気持がは っきり小学校4年生迄は続いた。 お袋は面食いで、晧三の事を「映画、タ ヌキ御殿の宮城千賀子に似ている」と言 ったのも重なった。芸能、役者嫌いに更 に拍車が掛かった。 小1,2、3年生た。其の後、 腎臓病で、塩辛いものがご法度になり、 其の頃、塩気の無い、醤油があるのを知った。 妙に味覚だけは発達していて、考えられ ないような不味い醤油だった。首には真っ 黒のコールタルのようなはり薬を貼っ てお多福風と戦った。 病が治りかけるとホシイカ(イカの切り干し)をかじる癖があった。姉の登久子はどん ぶり一杯の大根オロシを匙で食べる癖が あった。 今では、想像もつかないと思うが、其の 頃は、鼻が出ると「青鼻」と言って、そ れを、長袖の手首で、青鼻汁を拭うので、 袖はテカテカに光っていたものだ。 顔は雪国の子供と同じく、ホッペは真っ 赤にしていた。今では、北国でも見られな くなったが、体内酵素が変わってしまった せいだと言われている。運動会で一番ワクワクとして楽しいのは 、女子の「お遊戯」を見る事だった。近 所の日本郵船の加賀美さんのお嬢さんが、 長い髪のを風になびかせ、ヨハンシュト ラウスの「美しき青きドナウ」を踊るの を見て、まるで夢心地の一瞬を味わって いたものだった。 この辺のDNAは多分栄の兄弟有近、有 久から貰ったものかも知れない。 実姉、斗玖子は読書家で、晧三が病気で 寝ていると、絵のない、童話の本を枕元 に置いてくれたが、読む気にもならず、一 頁も読まなかった。 つまり情報源は「ラジオ」と親と兄姉と の言葉のやり取りを耳から覚えるだけで、文字や文章は まるでご法度だった。姉の知り合いの女 学生から貰った絵本を朝から晩まで見て いた、文字は読めない侭、絵から想像す るだけだった。音感は敏感でラッパやハーモニカは直ぐ に覚えた。このハーモニカが後日、集団疎 開で大変役にたったものだ。芸は正に身 を助けるものと言う事をお伝えして置く。 大森山王と言う住宅街は、後で知ったの だが、大邸宅が多く、通っていた第三国 民学校と言うのは大森の学習院と言われ、 親御さん達も学校の成績には熱心で、そ の頃から家庭教師をつけて、お勉強、お 勉強と言う雰囲気だった。 晧三の場合は後述するが、母親も父親も 誰も勉強をしろと一言も言った事も無か った。つまり甘やかされ放題だったし、 良く言えば放任主義、悪く言えば、無責任 主義だったのだろうか? 実父の栄は大坂生まれで栄の母親は山上 久乃と言って、1800年の歴史のある 海の神様住吉神社の神主の娘で大変な美 人だったと聞いている。晧三は話に聞く程度 で知らない。 背が高く栄を19歳まで、大坂で育て、 築地の有近、有久と東京の姉、和田を頼 りに出て来た。 大坂の住吉神社へ行くと山上の石燈籠が 幾つも見える。栄は実姉の斗玖子に 「お前はそんじょそこらの何処の馬の骨 とは違うのだ」と事ある毎に言い聞かせ ていた。 この言葉には姉登久子も何回も聞かさ れている中に頭脳に沈殿してしまった。 お目付け役の姉登久子は栄との軋轢は 大きかった。 大森山王の屋敷の道を挟んで正面の家の 津守さんと大変親しいくなった。津守さ んも住吉神社の宮司である事を後で知った。 この津守さんと姉登久子との出逢いは、 彼女の人生を大きく変えて行く事となる。 斗玖子が隆之輔の代わりに山王の家の跡 取になったのはこの津守さんとの出逢い が大きい。津守さんの実父はマツダラン プの社長で東芝の前進だ。 因果は巡ると言うが、高い所に立つと、 遠い所が見え、因果が巡るのが良く見 えるものだ。実姉登久子が家の正面の 津守さんと出会って以来、彼女の人生 は大きく変わって行った。 それは1800年の住吉神社をどっぷ りと背負って以来がらりと貫禄が出て、 ものの語り口調も変わって行った事を 付言して置く。 祖父の田中省三のDNAよりも栄えの 母親、山上久乃の神道のDNAが歴史的 には圧倒している事になるのでは無 いかと思う。晧三は兄弟4人で、長男が隆之輔、長 女が登久子、次男が皓三、次女富久子 とバランス良く整ったが、戒名を見る と、未だ上にもいたらしいので、そこ の点は現段階では割愛して先へ進ませ て頂く。 祖父は田中省三で示現流のお侍なのに その倅に当たる実父の栄は侍と言うよ りもナンパ男で、女好きで実姉の斗玖子がお目 付け役で、いつも監視されていた。栄は四畳半趣味で笑い方も「オホホっ」と 気取っていて、いけ好かない男だった。 いけ好かない男と言っても、パナマ帽 を被り、欧米風のハイカラ女性と船の 甲板に写っている写真など見ると、一 般的に見ると、田中省三の硬派に対し 栄の軟派で、栄えの方が今風に近いと 言える。 先日、隆之介の倅、つまり甥の晃弘に、 法事であったが、彼の理想とする人物 はあの栄であって、自分も貿易業の ハイカラ男をモデルにしたいと言って いた。 男子と言うのは反面教師で、父親は面 玉のコブで反発すると言うのが通例の ような気がする。 祖父の省三が侍の硬派に対して、その 倅のの栄は軟派、栄の倅の晧三は硬派 省三のヒシャゴに当たる正晃は軟派と なるが、どうもこれはまるっきり当た っていない。DNAで何時も頭に浮かぶのが織田信長 の11人目の男が有楽だ。似ても似つ かぬどっち付かずの世渡り上手。有楽 (ウラク)は歴史上にちゃんと、有楽 町を残しているではないか。 当てにならないのはDNAであろうか? 父親栄は省三の硬派に対して軟派と言 ったが、良く覚えているが、夕方になる とオーデコロンをつけて、小指の爪は 殊更長くして、何処かへ出かけて行っ たのを覚えている。 だが、晧三が小学校4年、昭和19年 の8月の事。集団疎開へ出かける前日 の事、栄は全身血だらけになったのを、 鮮明に目に浮かぶのだ。 昭和19年は大東亜戦争も雲行きは悪 くなって来たのに、ラジオ放送は勝ち 放しの景気の良いニュースばかりだった。 だが、山本元帥の死の情報依頼、俄か に東京を離れるクラスメートが多く、 暗いニュースは子供なりに肌で感じて いた。 大田区、山王小学校(旧第三国民学校) の大半は親戚へ縁故疎開で、他は集団疎 開組で静岡の藤枝の盤脚院と言うお寺へ 送られることになった。 よいよ、出発の前の日、父親、栄が横浜 中華街へ連れて行って呉れた。 あちらこちらの店を覗いて、父親の懇意 にしている店に入って肉団子を食べた。 その後、お別れの写真を撮った。その時 の自分の写真を覚えているが、ひょろひ ょろと青白く、如何にも神経質そうで想い 出すのも嫌だった。 とても、後日省三のあの野心的風貌とは 似ても似つかないものだった。 その日は残暑で蒸し暑い日だった。帰宅 後、父親、栄は行水をして、一服してい ると、騒ぎが起こった。 アパートの一号室の台湾人が「火事だ!」 大声を出して栄の所へ飛んで来た。 アパートの玄関の大きなガラス戸の前に 置いてあった防火用の砂の箱を持ち上げ、 ド近眼の栄は分厚いアパートのガラス戸 に突っ込んでしまった。ガラスの破片が 体中に突き刺さり真っ赤な血で染まって しまった。 其の儘、オバチャンが近くの小山田病院 に緊急入院がさせた。 「疎開出発の朝」 朝一番で、小山田病院へ栄の怪我の見舞い とお別れも兼ねてオバチャンと出かけた。 子供心に、事もあろうに、こんな時に、 なぜ昨日のような事件が起きたのか悶々と した気持ちで父親、栄と会った。 「晧三、藤枝の駅から盤脚院迄は2里程あ るが、トラックで行く筈だが、振り落とさ れように、必ず真ん中に乗るのだぞ!と言 われた。子供心に納得した。 一緒に、行く筈だったたった一人の頼りに なる三浦英樹(後の読売広告の常務)は急 性アレルギーの為、今回は一緒に行けない と連絡が入った。当時、三浦英樹以外に付 き合いのある友人は誰も居なかったので、 神経質な晧三にとってこれ以上の心細い気 持ちはなかった。集団疎開の生活が始まって3カ月も経った頃、昭和19年の11月、隆之輔が疎開先へ突然 やってきた。 普段から、兄、隆之輔との話し合いは 多くなかったので、兄が何かを告げにやって 来た。そんな感じがした。 その日は晴れていた。萬脚院の境内を通っ て、裏山への入り口には、大きな榧(かや)の 木があった。その前を通り抜け、30分程山を 登りつめると海が見えた。 押し黙ったまま、蜜柑の木の間からかもめが 飛んでいるのが見えた。「海だよ」と言っただ けで、また下山した。重い沈黙があった。 その晩、一つの布団で兄隆之輔と二人で寝た。その時、兄が言った言葉は「今度、皓三と会う のは靖国神社だな」 「赤紙が俺にも来た」翌朝 早く別れた。 小4の小さな脳には口で言えない淋しさが残 った。それでも竹馬に乗って、境内を走り廻っ て仲間とピヒーンと引っきやオッピキピー、トコ リンシヤ、ウンジヤウンジヤと訳も分からずそ の場を凌いだ。 それから半世紀ほど経って築地の寿司屋で一 杯やった。 隆之輔は赤紙の後は横須賀止まり で戦地へ行く前に終戦となった。 寿司屋での再開は、小生がテヘランの出張か ら帰って、退職直後の文化の日だったので、生 々しく記憶している。 お互いに酒は強くないが大ジョッキを頼んだ。 酔うにつれ、隆之輔の話は鹿児島の田中省三 の話となった。 幼い頃から父親、栄から省三の話は聞いてい たが、右から左へ通り抜けで、唯、明治の風雲 児だった程度だったが、隆之輔が久留米へ転勤 したばかりで九州弁で語ると妙に生々しく、手に取 るような九州男児の風景が目に浮かび愉快だった。 省三は192cm(182cmが正しい)の大男で西郷隆 盛をしのぐ巨大な体躯で、刃の使い手で示現流 の名手だった。 父親からの話よりも詳しく具体的に、まるで昨日 まで田中省三と寝起きしてたように微微細才に 亘って々に話してくれた。 隆之輔はジャーナリスト 志望だけあって、光景描写が旨かった。 久しぶりに男同士の話は盛り上がった。 赤紙が来 て萬脚院へ別れを告げにやってきたこと。 小生がテヘラン行きの際には、アラビアのロレンス になって来いとか。 山上塾を始めたら、東洋のイートン をモデルに省三は学校を作ったのだとか、アルコール が入るにつけ声も大きくなって行った。 現実離れの放談が、築地の寿司屋の客の耳目をさ そった。 隆之輔は久留米に転勤したばかりだったが、 影響を受けやすい性質で「オイドンは----等」話の 合いの手に入れたり、小生は関西系の商社で、いつ の間にか覚えた大阪弁で、互いに大きな声で陽気に 盛り上げた。近くのお客さんには多分耳障りだったと 思う。時間を見ると5時を廻っており、勘定を済ませ築地 から銀座4丁目に向かって歩き始めた。 この時の兄、 隆之輔のテンションの高ぶりは異常だった。 「なあ!皓三、示現流はこうやるんだ!」と刃を両腕 で振り上げる動作をして、「ヤーッ!」と大声を上げて 走り出した。 夕刻の帰路に着く男女がびっくりして道を開けた。 隆 之輔の風貌は額が大きく生え上がり一見物静か学者 風なのに こんな興奮めいた表情は滅多に見たことが ないと思うので特記しておく。 何れにせよ昭和の初期から昭和20年8月15日迄 は軍国少年に 仕立て上げられ、「武士道とは死ぬ事 と認めたり。」と洗脳されていた。
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