血だらけになった栄

 昭和19年は大東亜戦争も雲行きは悪くなって 来たのに、ラジオ放送は勝ち話の景気の良い ニュースばかりだった。 だが、山本元帥の死の情報依頼、俄かに東京 を離れるクラスメートが多く、暗いニュース は子供なりに肌で感じていた。 大田区、山王小学校(旧第三国民学校)の大半 は親戚へ縁故疎開で、他は集団疎開組で静岡の 藤枝の盤脚院と言うお寺へ送られることになった。 よいよ、出発の前の日、父親、栄が横浜の中華街 へ連れて行って呉れた。 あちらこちらの店を覗いて、父親の懇意にしてい る店に入って肉団子を食べた。 その後、お別れの写真を撮った。その時の自分の あんなの写真を覚えているが、ひょろひょろと 青白く、如何にも神経質そうで想い出すのも嫌 だった。 とても、後日省三のあの野心的風貌とは似ても似 つかない ものだった。 その日は残暑で蒸し暑い日だった。帰宅後、父親、 栄は行水をして、一服していると、騒ぎが起こった。 アパートの一号室の台湾人が「火事だ!」大声を出 して栄の所へ飛んで来た。 アパートの玄関の大きなガラス戸の前に置いてあった 防火用の砂の箱を持ち上げ、ド近眼の栄は分厚い アパートのガラス戸に突っ込んでしまった。ガラス の破片が体中に突き刺さり真っ赤な血で染まって しまった。 其の儘、オバチャンが近くの小山田病院に緊急入院が させた。 「疎開出発の朝」 朝一番で、小山田病院へ栄の怪我の見舞いとお別れも 兼ねてオバチャンと出かけた。子供心に、事もあろうに 、こんな時に、なぜ昨日のような事件が起きたのか 悶々とした気持ちで父親、栄と会った。 「晧三、藤枝の駅から盤脚院迄は2理程あるが、トラック で行く筈だが、振り落とされように、必ず真ん中に 乗るのだぞ!と言われた。子供心に納得した。 一緒に、行く筈だったたった一人の頼りになる三浦英樹 (後の読売広告の常務)は急性アレルギーの為、今回 は一緒に行けないと連絡が入った。当時、三浦英樹以外 に付き合いのある友人は誰も居なかったので、神経質 な晧三にとってこれ以上の心細い気持ちはなかった。      

山上隆之輔の伝言

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