鹿児島生まれの田中省三

兄の想い出、 兄は早大の文学部美術史専攻で、ジャーナ リスト志望だったが、志を全う出来ず、 ブリジストン美術の学芸員となった。 だがもの書きは好きで、文字はミミズが 走ったよう字だが、筆豆だった。 例えば、飛行機にの中で、何か思いつく と、タバコの箱を裏返しにして、封筒に 入れて送って来た。 好奇心は旺盛で、文章を書くのが本当に 好きだったのか田中省三についての断片 資料も多数送って来た。 整理して見ると、、田中省三は、福山村 (現在の福山町小廻)で1858(安政5年) 1月に誕生、19あがって18年4月に私立福山 中学校を開校している。東洋のイートン がモデルだったようだ。 1925年、(大正14年)田中省三は 亡くなっている。数えて見ると67歳の 生涯だ。 今だったらこれから一勝負と言った所だ。 福山町の郷土誌によると,生家は集落きっ ての豪農で、網元でもあった。幼少から 利発で寺子屋で学んだが、親はこの子に 家業を継がせようとしたが、心そこに非 ずだった。 青年期には身の丈6尺(約182センチ) にそだち、角界入りを勧められた程、頑 健な身体で、栄が何度も晧三に話して いた通りの強そうな侍だった。示現流だ名手だったと聞いている。 血気盛んで、18歳の時、西南戦争で西郷 軍に志願、負傷兵を担いで敗走中、延岡 付近で大久保利光一派に捕まるが、程 なく許されている。敵を味方につける何か人たらし的性格だったのだと思う。 身体は相撲さんのように大きかったが、田 中省三の若い胸には抑えつけられていた向 学心もえたぎっていたようだ。 1879年(明治12年)、21歳で、農業 と網本家業を捨てて、猛反対の両親を説き 伏せて開設間もない鹿児島師範へ進んでいる。 主席で師範を卒業して、石川県の 公立の副校長として赴任したが、校舎建設の件で、校長と意見が合わず、退職している。気が短い所は父、栄、晧三が引き次いでいるようだ。気は長いのだが、癇癪持ち、で瞬間湯沸し器だったと察している。兄、隆之輔は、額は生え上がっており、一見学者風で、物静かなタイプで鹿児島の田中省三とはかなり違うタイプだった。弟の、小生、晧三が怒りぽく瞬間湯沸かしだったので、兄,隆之輔としては、どうしても、弟の晧三に田中省三の事をより詳しく伝えたかったようだ。<<続く>>

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