山上晧三の教育係はオバチャンだった。
山上久子は賀世子の実妹で晧三の 教育係だった。 いつも、朝帰りで、昼間は居なかった。 良く、中華風の甘味のもち米の,折詰 のゴハンを土産で買って来て呉れたのを 覚えている。 晧三が4才の時、引っ越して来たのだが、 大変広く、新しく引っ越しをした山王の 屋敷はお化け屋敷と言われただけに 初期の段階では中々馴染めなかった。 久子が昼間、働きに出ていると、賀世子 と妹の冨久子と3人きりでひっそりとして いた。冨久子は2才で、賀世子が世話を していたが、晧三は相手をしてやれなか った。 1937年(昭和4年)年は日中戦争が始ま った年で、古い蓄音機付きのラジオで 何か怖い感じを皮膚感覚で悟っていた ようだ。 住居環境が極度に変わったせいでもあるが 殊更、その時の光景は今でも目に浮かぶ。 広い庭と北向きの陰気な広い間取りの家 だった。 南端の10畳の部屋の上には、後から 建て増したのか、しゃれた洋館風の2 階が乗っかっていた。 クリーム色の壁に茶色の木の梁が、如何 にもしゃれていて、この2階だけが、4歳 の子供心を夢心地にして呉れたのを 覚えている。 父、栄は良く、ガシャン、ガシャン と音を立てながら、あのスミスのタイプライター を人指し指一本で仕事をしていた。 晧三にとってあの線路際の「ごみ箱横丁」 から山王への引っ越しは余りにも大きな 事件だったので鮮明に覚えている。 どんなに幼くても、ショックが大きいと、記憶 は深く定着してしまうものらしい。 栄は貿易業でスミスのタイプライターで 指一本で戦っていたが、成約は安定して 居なかった。 されど、昭和15年にはボリビアのタング ステンが成約し、第一船が入って来た 年ではないかと思う。つまり晧三は数え で6才。栄も大きな成約が実って有頂天 になった時期だと思われるが、昭和16 年の12月8日のパールハーバーで、 タングステンの仕事は無くなっている。 晧三は北向きの広い屋敷で母、賀世子 とお手玉や綾取りをし乍ら、過ごす事が 多かった。時代も暗かったが、屋敷の雰 囲気も何か物寂しい雰囲気だった。 久子は、講談社の絵本で、お話はし て呉れた。 例えば、山中鹿野助の「我に100難 の苦を与え給え」とか、そんな精神的 な教訓の話を良くして呉れた。 久子は良く、膝枕で「耳くそ」をとって呉れ たり、夕方山王小学校の真向かいの シマキューと言う薬局屋へ、今でこそ誰も使っている二輪車のスケート で薬を買いに出かけた。決して裕福 では無かったが、父、栄の仕事柄見本 でオモチャや、そんなスケートはあった。 山王の屋敷の門を出ると道は南から 北の方向へ走っていた。石畳の幅3 メートル前後の通学道路だった。 中央郵便局の「ゴミ箱横丁」 当たりからは通学圏で、小学生は 大半はこの通りを使って通った。 屋敷から、北へ数十メートル行くと 小山田病院があり、その近くに、杉村 春子が住んでいた。 久子は、この女優杉村春子に顔も 身体つきもそっくりだった。家族で 「ね!そっくりだね!」等良く話した ものだ。久子は歩き方に特徴があり ヒョイヒョイと弾むように歩いた。 昼間、遠くから姿を見ると、夢中で走って 行って、グルグル回りをしてもらった。 良く、おんぶをしてもらって、ノンノちゃん の歌や話をして貰った。 と言う事は「ゴミ箱横丁」の頃の光景か も知れない。人間は結構、2,3歳の頃 を覚えているものなのだ。 山中鹿之助の話は偉い人だつたのだ と何回も聞かされていたし、小野の 東風の蛙が飛びつく話も良く聞かされ た。 久子はペンテックスの技法を習得 しており、帯芯など良く作っていた、 玉虫を使って帯を作って見せて呉れ た。 漢方薬等の知識が豊富で、オデキが 出来ると、庭に出てツヤブキの葉を 採って来て、表面を軽く焼いて、殺菌 して、デキモノに密着して包帯で 固定させると、タコの吸出しと違って 表面が綺麗に治る事を教えて呉れた。 確かに、タコの吸出しも膿をだすが 局部に穴があいてしまって、皮膚に後が残ってしまうが、ツヤブキ療法は跡形も無く
治った物だ。 ワゼリンと言う赤い缶に入っている
万能薬を使って呉れた。後年は「ツカレズ」
を良く飲んでいた。又ヨクイニンも死の間際まで飲んでいた。 雪舟(絵描き)の話を良くして呉れた。
別に、こう成りなさい等、賀世子と
同じで押し付ける事等一切無かった。
昭和18年の戦争の雲行きが悪くなると
小学生も勤労奉仕で駆り出され、防空壕
をあちらこちらに作った。
そんな時、久子はシャベル、鍬、ツルハシ
の使い方を教えて呉れて、このツルハシ
を使って、畑や防空壕を作る事に励め
ば、足腰が強くなって、走る事、格闘、
相撲が強くなると、教えて呉れたので
懸命に励んだものだ。
昭和20年、の戦後は久子と焼け跡に出て
畑を作った。トマトや落花生も作った。
久子と採れたてのトマトをもぎって食べた
時のあの味は忘れられない。
久子は晧三の精神的な教育係であった。
廊下の端に座り机を置いて、久子は
習字を教えて呉れた。
右ひじを上げた侭、太い筆のどっぷりと
墨をつけ、勢い良く「ドドン・シュツ」と言って
ダイナミックに書く事を覚えた。その結果
中学校の時大田区で一等賞を貰った。
賀世子も久子も「こうしろ、ああしろ」と 指示や躾等決してしなかった。
後年、横浜の東戸塚で学習塾を開いた時、 親は子供に押し付けがましいことを決して
してはならない事を塾是とした。
山上塾は決して、親は押し付け指導は
してはならないと言う事を塾是としたの
は母、賀世子と久子の考え方が大きく
影響していた事は確かだ。
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