田崎方規の思い出続編
田崎方規氏は今考えると山上家の大黒柱だったと思う。 又そのように、仕向、育て、有無も言わさず、そのように したのは、やはり決断と実行力のあった、母親、賀世子 だった。 田崎さんからは歌舞伎や謡曲の走りを教わった。 親戚関係の結婚式には、必ず「高砂」を歌って 呉れた。又 「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」 など、歌舞伎言葉やセリフ等,良く口にした人だった。 寡黙で必要な言葉以外は喋らない人だった。 お酒の話をしただけで、酔っぱらってしまう程 おアルコールには弱かったが、東北人の独特な中に燃えたぎる闘志と好奇心は持っていた。昭和13年当時から、野球、スキー、スケート をやったり、バイオリン、ギター、マンドリン等の楽器は持って いたのでと、良く悪戯をさせて貰った。 又、何でも独学でこなしてして仕舞う人なので ドイツ語、フランス語の教材も持っていたので、晧三はこっそりと 書棚から、覗いてみたりしたものだ。 休日には三脚を立てて油絵も描いたりしていた。 幼い 晧三にとっては、きっと珍しい事ばかり なので、田崎さん、田崎さんと懐いていたので 可愛いがって呉れたのかも知れない。 家族の中で田崎さんとは一番付き合いが多かった 良く大森海岸近くの風呂屋まで、一緒に行っては、帰りに リンゴをまるカジリしたものだ。 田崎さんは兄、隆之輔より速く徴兵されて近所 の人の千人針を腹に巻いて、出征した。 大森駅で皆で手を振って送ったのを覚えている。 大変寂しい思いだった。朝鮮に戦時中滞在して、戦後 元気に帰って来た。面白い事に、仙台の自宅に帰らず 大森の山王に帰って来た。田崎方規さんは良くバイオリン でタイスの瞑想を弾いて呉れた。後に姉、斗玖子と 一緒になるのだが、このバイオリンの音を聞いて まるで中国の胡弓見たいね!と悪口を言っていた。 会社は一部上場の三機工業で定年まで勤めあげた 92歳で亡くなった。今考えると晧三にとって 知らず知らずの中に影響を与えた、静かな巨人 だったのだ。合掌しなければならない。 さて、父親、栄と兄、隆之輔の話と姉、斗玖 子の言い伝えから推して、 廃仏毀釈は祖母、久乃は悲劇的翻弄させられたのだ。 気の毒でいたしかたない。 幕末から明治にかけて廃仏毀釈の嵐が吹いた。 住吉大社の久乃はこの嵐に翻弄されて栄と連 れだって東京の有近、有久を訪ね、訪ねて 大阪を離れる事を余儀なくされた。 廃仏毀釈程、日本歴史の中で、これ程の悪 法は無かったと言われている。 有近、有久は東京築地で女形の歌舞伎役者 として一世を風靡していた。 栄と久乃は有近、有久に相談して、暫くは 姉の和田を訪ねた。和田は久乃の姉で、隅田 川の傍で手焼き煎餅屋をしてひっそりと暮ら していた。和田には晧三の従兄にあたる義弘と言う男がいた。大変なイケメンでスポーツ 好きの努力家で、その時代に熱海から初島 まで遠泳をしていた。家の事情で中学で 止まりで繊維問屋で一生を送ったが、義弘 さんにも、晧三は大変可愛いがって貰った。 この頂点に立つのが鹿児島の田中省三と 住吉大社の久乃と言う事になる。 殊に隆之輔と晧三は親父から聞かされ て来たが娘、真喜子がが宮崎の愛甲裕氏と縁が出来て、 鹿児島の省三の記念館で本人の写真を拝む迄は 本気で心に止める気は無かった。 案内して呉れた愛甲のご夫妻が夫婦が口を揃えて、晧 三に似ていると言われて、ネットや図 書館で調べる気になった次第だ。 元々晧三は歴史や社会科学は不得手で 本等読んだことも無く、新聞さえ写真 を眺める程度で昔の事などどうでも良 いと思っていた。 早い話、坂本竜馬も宮本武蔵も、織田 信長も時系列がゴッチャで、歴史の授 業等欠伸ばかりしていた。 晧三の興味歴史なんかよりも、幼い頃から、物を作ったり、 水の中に花粉を浮かばせ、顕微 鏡 で見ると動くのが興味があったり、 焼け 跡 からブリキを拾ってきて、モー ターを 作ったり 亜鉛と塩酸で水素ガス を作って、 シャボン玉 に入れようとし たりして不思 議な科学現象ばかり を追いか けていた。 晧三の興味はどうも理科系で社会科学的 感覚が皆無に等しく、どうでも良かった。 右から左へ通り抜けで、唯、 明 治の風雲 児だった程度だったが、隆 之輔 が久留米 へ転勤した ばかりで九州弁で語る と妙に生 々しく、 手に取るような描写が愉 快だっ た。 省三は182cmの大男で西郷隆盛をしの ぐ巨 大な体躯で、刃の使い手で示現流 の名手だ った、西南戦争に義勇兵として 参加して傷 ついた兵士を担いで故郷 まで帰った等、強 そうな人だったのだ、とそんな 程度の認識 だった。 父栄は隆之輔と晧三には省三の話をし て 姉, 斗玖子と妹には大阪の住吉大社 の 久乃の話し かしなかった。こんな事 に年 を取って80歳 を超えると、子供 達に自分 のルーツを伝えて やりたい気 持ちが出て 来るのか もしれない。 省三のヤシャゴに当たる正晃の事に触れたい。 正晃は小学校の授業で、省三と正三と間違えた。 省三と正三を間違えて、「うちのお爺ちゃんだ!」 と小学校の授業の時間に手を挙げて、みんな に 笑わ れ大恥をかいた、省三のヤシャゴにあ たる正 晃は やがて50才を超える。 省三の孫にあたる晧三は、好き嫌いが激しく 癇癪 持ちは間違い無く省三譲り、話す声はや たらと大 き く、家内の玲子も耳が遠くなり、 お互いの会話 は 怒鳴り合いになり、近所で は、心配になって、 「大丈夫ですか?」顔 を出す始末。 明治10年の 頃の省三は教育者になる積り だった のに、ひょっ とした、思い付きで 田中汽船を始め、 陸軍に、水 を中国やロ シアへ輸送する、船舶の特需 で、財界 を 182センチの巨漢で名を売り、風雲児 の 名を 我が物とした。 省三の血を引いている正晃も、声は大 きく、初 対面 の人間は、びっくりして、 もう少し、小さな 声で喋って 欲しいと 注文をつける。 偶に、家に遊びに来た時 には 「なーんだ、テレビ の音が大来すぎ るよ!」と40の音 を20位にす る。 晧三と晧三の家内玲子は「それじゃ、何も 聞こえ ないのだ。 偶に、省三の血を引く正晃が、今時の 若い女性 に 合うと、あまりに今の若い男 と違うのでビック リポン だ! 酸いも甘い も噛み分けた女性なら、正晃の奥底に 見 える優しさを瞬時に理解し得ても、外見 しか見 えない 若い女の子には手に負えな い堅物でしかな い。 正晃の腹には一点の一物も無く、底抜けの秋の 空の 如く澄 んでいる。老いも若きも心の 澄んだ人間に は正晃の 優しさに敏感に響 き、彼と又合いたい気 持ちになって しまう。 そう言う男も既に50歳の坂を超えるが、 もう後 30年 も生きて省三の孫の晧三と 同じ位の年にな れば、一時 的な本能や衝動 に左右されず、物事を 概念的、理論 的に考 える心の働きが出来るように なると思うの だ。 全く短期は損気、喧嘩速いのは 南国鹿 児島の田中省三 の血が流れているのだから 仕方あるまいと思う。 父親、栄は隆之輔と晧三には、省三の示現流 斗玖子と末子の冨久子には久乃の話をしていた と先述した。理由は定かでないが、斗玖子は 何と言っても、家族を仕切っていた、確り者 だった。 栄は殊更、晧三の事を可愛がっていたように 思うので、栄の事にもう少し深入りして見たい。 栄は晧三の中に省三のDNAが一番濃厚だと 感じていたと感じていたらしく、兄、隆之輔 も省三の顔写真が晧三に似ていると言っていた からだ。 「血だらけになった栄」 昭和19年は大東亜戦争も雲行きは悪くなって 来たのに、ラジオ放送は勝ち話の景気の良い ニュースばかりだった。 だが、山本元帥の死の情報依頼、俄かに東京 を離れるクラスメートが多く、暗いニュース は子供なりに肌で感じていた。 大田区、山王小学校(旧第三国民学校)の大半 は親戚へ縁故疎開で、他は集団疎開組で静岡の 藤枝の盤脚院と言うお寺へ送られることになった。 よいよ、出発の前の日、父親、栄が横浜の中華街 へ連れて行って呉れた。 あちらこちらの店を覗いて、父親の懇意にしてい る店に入って肉団子を食べた。 その後、お別れの写真を撮った。その時の自分のあんな の写真を覚えているが、ひょろひょろと青白く、 如何にも神経質そうで想い出すのも嫌だった。 とても、後日省三のあの野心的風貌とは似ても似つかない ものだった。 その日は残暑で蒸し暑い日だった。帰宅後、父親、栄は 行水をして、一服していると、騒ぎが起こった。アパート の一号室の台湾人が「火事だ!」大声を出して栄の所 へ飛んで来た。 アパートの玄関の大きなガラス戸の前に置いてあった 防火用の砂の箱を持ち上げ、ド近眼の栄は分厚い アパートのガラス戸に突っ込んでしまった。ガラス の破片が体中に突き刺さり真っ赤な血で染まって しまった。 其の儘、オバチャンが近くの小山田病院に緊急入院が させた。 「疎開出発の朝」 朝一番で、小山田病院へ栄の怪我の見舞いとお別れも 兼ねてオバチャンと出かけた。子供心に、事もあろうに 、こんな時に、なぜ昨日のような事件が起きたのか 悶々とした気持ちで父親、栄と会った。 「晧三、藤枝の駅から盤脚院迄は2理程あるが、トラック で行く筈だが、振り落とされように、必ず真ん中に 乗るのだぞ!と言われた。子供心に納得した。 一緒に、行く筈だったたった一人の頼りになる三浦英樹 (後の読売広告の常務)は急性アレルギーの為、今回 は一緒に行けないと連絡が入った。当時、三浦英樹以外 に付き合いのある友人は誰も居なかったので、神経質 な晧三にとってこれ以上の心細い気持ちはなかった。 >>>
以下は山上晧三の生い立ちに続く。<<<<
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