赤紙が来た

昭和19年の11月、隆之輔が疎開先へ突然やってきた。 普段から、兄との話し合いは多くなかったので、兄が何かを告げにやって来た。そんな感じがした。 その日は晴れていた。萬脚院の境内を通って、裏山への入り口には、大きな榧(かや)の木があった。その前を通り抜け、30分程山を登りつめると海が見えた。押し黙ったまま、蜜柑の木の間からかもめが飛んでいるのが見えた。「海だよ」と言っただけで、また下山した。重い沈黙があった。その晩、一つの布団で兄隆之輔と二人で寝た。その時、兄が言った言葉は「今度、皓三と会うのは靖国神社だな」 「赤紙が俺にも来た」翌朝早く別れた。 小4の小さな脳には口で言えない淋しさが残った。それでも竹馬に乗って、境内を走り廻って仲間とピヒーンとひっきゃオッピキピー、トコリンシヤ、ウンジヤウンジヤと訳も分からずその場を凌いだ。 それから半世紀ほど経って築地の寿司屋で一杯やった。 隆之輔は赤紙の後は横須賀止まりで戦地へ行く前に終戦となった。 寿司屋での再開は、小生がテヘランの出張から帰って、退職直後の文化の日だったので、生々しく記憶している。 お互いに酒は強くないが大ジョッキを頼んだ。酔うにつれ、隆之輔の話は鹿児島の田中省三の話となった。 幼い頃から父親、栄から省三の話は聞いていたが、右から左へ通り抜けで、唯、明治の風雲児だった程度だったが、隆之輔が久留米へ転勤したばかり九州弁で語ると妙に生々しく、手に取るような描写が愉快だった。 省三は182cmの大男で西郷隆盛をしのぐ巨大な体躯で、刃の使い手で示現流の名手だった。父親からの話をもっと詳しく具体的に、まるで昨日まで田中省三と寝起きしてたようにびび再々に話してくれた。 久しぶりに男同士の話は盛り上がった。 赤紙が来て萬脚院へ別れを告げにやってきたこと。 小生がテヘラン行きの際には、アラビアのロレンスになって来いと言った。 山上塾を始めたら、田中省三は西南戦争の後、東洋のイートン(ケンブリッジ大学を見習え)とか、現実離れの放談が、築地の寿司屋の客の耳目をさそった。 隆之輔は久留米に転勤したばかりの九州弁と、小生は関西系の商社で、いつの間にか覚えた大阪弁で、互いに大きな声で陽気に盛り上げた。たぶん耳さわりだったと思う。 時間を見ると5時を廻っており、勘定を済ませ築地から銀座4丁目に向かって歩き始めた。 この時の兄、隆之輔のテンションの高ぶりは異常だった。 「なあ!皓三、示現流はこうやるんだ!」と刃を両腕で振り上げる動作をして、「ヤーッ!」と大声を上げて走り出した。 夕刻の帰路に着くサラリーマンの男女がびっくりして道を開けた。たぶん隆之輔のこんな表情は見たことがないと思うので特記しておく。 戦争中は我々は軍国少年に仕立て上げられ、「武士道とは死ぬ事と認めたり。」と洗脳されていた。 


 台風一過の雲の影 

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