美術館の学芸院だった隆之輔

晧三の兄、隆之輔は早大の文学部美術史 専 攻で、

ジャーナリスト志望だった。 だが、志叶わずブ

リジストン美術館の学芸 員と なった。 



 だがジャーナリスト志望だけあって、 好奇心

 は旺盛で、もの書きは好きで、 文字はミミズ

が 走ったよう字だが、 筆豆だった。 又足まめ

でもあった。 



 東洋、西洋を問わず、美術の関して は大変詳

しいと思うのだが、晧三に はどうしても田中

省三の事は伝えて置き たい気持ちが強かった

ようだ。 



 田中省三に関しては栄や隆之輔 から何回も聞

いており、マンネリ化 していたが、断片的だが、

省三に 関しての情報を頻繁に送って来た。 



 隆之輔が欧米に美術館巡りで出かけ 時も、飛行

機の中から、ふと思いつ くと紙切れに走り書きし

て、封筒に 入れて送って来た。 放ったかりにし

ていたのだが、ある きっかけで、本気で整理し

て見る 気になった。 



 それは、田中省三の鹿児島の記念館 へ行った事

だった。



案内して下さった 愛甲ご夫妻が「省三の顔に似て

いる」 と言う一言だった。 この時、田中省三の

DNAの一滴が晧 三の血にも流れているのかと、思

う ようになった。 



 それ以来、何時か時間が出来たら、隆之輔 から、

届いている、断片的資料を 整理して見たい気持ち

が募って来た。 又、栄も隆之輔もアルコールが入

ると良く 「雨は降る降る人馬は濡れる」とか、

「直近 ではラスト侍」の話等をしていたのも、 

田中省三にもっと、詳しくなってみる 気が強くな

った次第だ。



 田原坂の戦いは西南戦争の最期で西郷 隆盛もこ

の場所で自決する。田原坂は ほんの狭い坂道だが

日本人同士の最期 の凄惨な戦いだった。 


 

2月から9月24日迄の戦いで、関ケ原 の戦い

が数時間で終わったのに対し、西南 戦争は7カ

月の日本人同士の惨い、戦い だったと言われ、

ラスト侍の場面の モデルになったと言う。

 こんな事も隆之輔は省三の資料として 送って寄

越した。                 

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