隆之輔の欧米美術館巡り


隆之輔は久子の事をオバン、オバンと呼んでいた。隆之輔はタマを良く虐めた。玉の尾は鍵のように曲がっており、タマを逆さにして、鴨居に引っかけるような悪さを平気でする男だった。

晧三が静岡の萬脚院へ疎開をしたのは小4の時だった。昭和19年の秋口に菊池先生から「今日お兄さんが来ると言う連絡があった わよ」と言われた。突然なので何だろうと思った。 丁度ミカンの何時ものおやつの時間が終ったころ やって来たので、盤脚院の境内を通り抜け、裏のミカンの山へ案内した。 30分程登ると海が見えた。兄は海軍省に勤めて いた。 兄とはあまり話しをしないし、それ程仲が良くな かった。彼は成績は全優でトップクラスで冷たい 感じだった。 その晩二人で寝た。「とうとう赤紙が来た。今度 お前と会うのは靖国神社だ」と言った。名状し難い 寂しさが込み上げて来た。隆之輔は横須賀止まりで、結局戦地へ行かずに済んだ。



●その後、昭和36年の春早大の美術史を専攻して、兄は早大の文学部美術史専攻で、ジャーナ リスト志望だったが、志を全う出来ず、 ブリジストン美術の学芸員となった。 だがもの書きは好きで、文字はミミズが 走ったよう字だが、筆豆だった。 例えば、飛行機にの中で、何か思いつく と、タバコの箱を裏返しにして、封筒に 入れて送って来た。 好奇心は旺盛で、文章を書くのが本当に 好きだったのか田中省三についての断片 資料も多数送って来た。


山上隆之輔の伝言

山上隆之輔の伝言


0コメント

  • 1000 / 1000