漢方に長じていた久子

 山上久子は賀世子の実妹で晧三の 教育係だった。 いつも、朝帰りで、昼間は居なかった。 良く、中華風の甘味のもち米の,折詰 のゴハンを土産で買って来て呉れたのを 覚えている。 大森山王の現在斗玖子の屋敷は、晧三 が4才の時、引っ越して来たのだが、 大変広く、久子が昼間、働きに出て いると、賀世子と冨久子と3人きり でひっそりとしていた。 久子は、良く講談社の絵本で、お話 はして呉れた。 例えば、山中鹿野助の「我に100難 の苦を与え給え」とか、そんな精神 苦みたいな、話を良くして呉れた。 久子は良く、膝枕で耳くそとって呉れ たり、夕方山王小学校の真向かいの シマキューと言う薬局屋へ、スケート で薬を買いに出かけた。 山王の屋敷の前は南から北の方向へ 石畳の幅3メートル前後の通学道路 があり、中央郵便局の「ゴミ箱横丁」 当たりからは通学圏で、小学生は 大半はこの通りを使って通った。 屋敷から、北へ数十メートル行くと 小山田病院があり、その近くに、杉村 春子が住んでいた。 久子は、この女優杉村春子に顔も 身体つきもそっくりだった。 山中鹿之助の話は偉い人だったのだ と何回も聞かされていたし、小野の 東風の蛙が飛びつく話も良く聞かされ た。 久子はペンテックスの技法を習得 しており、帯伸など良く作って いた、玉虫を使って帯を作って見せて 呉れた。 漢方薬等の知識が豊富で、オデキが 出来ると、庭に出てツヤブキの葉を 採って来て、表面を軽く焼いて、殺菌 して、デキモノに密着して包帯で 固定させると、タコの吸出しと違って 表面が綺麗に治る事を教えて呉れた。 確かに、タコの吸出しも膿をだすが 遅いに穴があいてしまって、治療 に時間が掛かったものだ。 雪舟(絵描き)の話を良くして呉れた。 別に、こう成りなさい等、賀世子と 同じで押し付ける事等一切無かった。 昭和18年の戦争の雲行きが悪くなると 小学生も勤労奉仕で駆り出され、防空壕 をあちらこちらに作った。 そんな時、久子はシャベル、鍬、ツルハシ の使い方を教えて呉れて、このツルハシ を使って、畑や防空壕を作る事に励め ば、足腰が強くなって、走る事、格闘、 相撲が強くなると、教えて呉れたので 懸命に励んだものだ。 昭和20年、の戦後は久子と焼け跡に出て 畑を作った。トマトや落花生も作った。 オバヤン、久子と採れたてのトマトを もぎって食べた時のあの味は忘れられない。 久子の教えは色々な面で晧三の精神的な支柱であった。      

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