山上晧三の生い立ち

晧三の生い立ち 晧三は幼い頃から父親、栄から省三の話 は耳にタコが出来る程聞かされて来た。 物心がつく迄、強そうなお侍だったのだ な!写真でも見たいものだ。そんな程度 の思いだった。 だが、娘が宮崎の男と縁が出来て、その男 の両親が宮崎の日南に住んでおり、ご挨拶 で訪問した時、鹿児島の省三の記念館へ 案内して下さった。 記念館の省三の写真を見て、ご両親が晧三 の顔にそっくりと言うので、成るほど、自分 にDNAの一滴が少しは入っているのかと、気 にかけるようになった。 宮城県飫肥藩の小村寿太郎の写真と並んで 省三の写真が晧三に似ていると言うので、 流石の歴史音痴の晧三も少し気が動いた。 爾来、遠くにあった、省三が急接近して 来た。 元々晧三は歴史や社会科学は不得手で 字を読む事も嫌いで新聞も字頭(じずら) を見るだけで、写真を眺め程度だった。 高校時代の親友、徳ちゃんに「お前新聞 位読めよ!」と言われたのを痛く想い だすが、本当に読書等嫌いであった。 殊に歴史が不得手で、早い話、坂本竜馬 も宮本武蔵も、織田信長も時系列がゴッ チャで、歴史の授業等欠伸ばかりしていた。 興味は水の中に花粉を浮かばせ、顕微 鏡で見ると動く「ブラウン運動」が興味 があったり、焼け跡からブリキを拾って きて、モーターを作ったり、亜鉛と塩酸 で水素ガスを作って、シャボン玉に入れ ようとしたりして不思議な現象ばかりを 追いかけていた。 省三は192cm(資料では182センチが正しい) の大男で西郷隆盛をしのぐ巨大な体躯で、 刃の使い手で示現流の名手だったと聞い ていた。 18才の時、西南戦争に義勇兵として参 加して傷ついた兵士を担いで故郷まで帰 った等、強そうな人だったのだ、程度の 認識だった。 父栄は隆之輔と晧三には省三の話を頻繁 にして、姉,斗玖子と妹、冨久 子には大 阪の住吉大社の久乃の話しかしなかった。 何故だろう?それも晧三の耳目を捉えた。 こんな事に年を取って80歳を超える と、子供達に自分のルーツを伝えてやり たい気持ちが出て来たのだ。歴史音痴 が手っ取り早く、鳥の目になってルーツ を見たくなったのだ。 実父の栄は兄や姉や妹よりも小生を特別 に大切にして可愛がり、何かと大切にし てくれたような気がした。 その実父栄、に対して、長女の登久子は 厳しくお母親の命令で目付け役を飽きず に追求の手を緩めなかった。ヘビ年だか ら諦めない。追及の手とは栄の女癖を管 理する事だ。 その登久子も晧三の事を可愛がって呉れた。 良く絵の無い、文字だらけの童話を買っ てくれたり、女だてらに、喧嘩に強くな るように取っ組み合いの相手をしてくれ た。 母親,賀世子も晧三を良く外食に連れて 行って呉れた。大概は池上通りのガード を潜って大森駅の東口の白木屋の食堂だ った。今でも東急に名前は変わったが建 物は残っている。 4歳の或る雨季に入るどんよりとした 日、オバチャンに付き添われ、三輪車 を漕ぎながら、玉塚証券の大邸宅の前 に差し掛かった時、「何処へ行くの?」 とオバチャンに聞いたら。 今日から、違うお家にお引越しするのよ! と言われ、三輪車をグルッと向きを変え 中央郵便局の「ゴミ箱横丁」へ向かって 一目散に引返したのを覚えている。それ でも、オバチャンの説得で思い止まって 山王の家に辿りついた。 山王の家の周辺は大邸宅ばかりで、引っ 越し先の家は「覇王樹の主宰の橋田東 声」が住んでいた、草ぼうぼうの100坪 もある邸宅だった。ゆうれい屋敷とも 言われていた。 中央郵便局の裏の「ゴミ箱横丁の家」 とはまるで違い、日中殆どは母親 賀世子と二人きりで過ごす事が多かっ た。毎日のように隣の女の子が生垣 のように遊びに来た。 小学校一年生の、最初の通信簿を今でも、 鮮明に覚えているが不可、不可、不可が ずらりと並び、確か芸能と言う科目が優 とあったのを覚えている、だが本人は不 可が悪いと言う事の意味が分からず芸能 が優と言う事がやたらと恥ずかしい感情 を持ったのを覚えている。 お袋が「お前は、ラジオの音楽に合わせ、 踊りをするのが上手だったね!」と言う 言葉を想い出し、通信簿の芸能が「優」 だったのを思い重ね、その頃から男らし くありたいと思っていたのに、歌や踊り 等が得意だなんて恥ずかしいと心の底か らそう思った。 子供心に「芸能」等、歌や踊りをやる なんて恥ずかしい女々しい事と決込ん でいた。栄の兄弟の有久、有近と言う 晧三の叔父に当たる男が、築地で女形 の役者だと言う事も時折、栄から聞いて いたので、芸能というと、その叔父の 事も重なって連想したのだと思う。 つまり、歌や踊りや築地の女形役者と繋 がる程度の理解力だったので「芸能」が 出来るなんて女々しいと言う感情が強く、 自分がいやでいやで仕方が無い気持がは っきり小学校4年生迄は続いた。 お袋は面食いで、晧三の事を「映画、タ ヌキ御殿の宮城千賀子に似ている」と言 ったのも重なった。芸能、役者嫌いに更 に拍車が掛かった。 小1,2、3年生迄の運動会程、嫌いな ものが無く、学校が大嫌いで、色々理屈 をつけてズル休みをした。小学校一年生 の時に、首の脇が腫れて、お多福かぜ で一ヶ月程休んだ事もあった。 成績が良くなる筈は無かった。其の後、 腎臓病で、塩辛いものがご法度になり、 其の頃、塩気の無い、醤油があるのを知 った。 妙に味覚だけは発達していて、考えられ ないような不味い醤油だった。首には真っ 黒のコールタールのようなはり薬を貼っ てお多福風と戦った。 病が治りかけるとホシイカ(イカの切り干し) をかじる癖があった。姉の登久子はどん ぶり一杯の大根オロシを匙で食べる癖が あった。 今では、想像もつかないと思うが、其の 頃は、鼻が出ると「青鼻」と言って、そ れを、長袖の手首で、青鼻汁を拭うので、 袖はテカテカに光っていたものだ。 顔は雪国の子供と同じく、ホッペは真っ 赤にしていた。今では、北国でも見られな くなったが、体内酵素が変わってしまった せいだと言われている。 運動会で一番ワクワクとして楽しいのは 、女子の「お遊戯」を見る事だった。近 所の日本郵船の加賀美さんのお嬢さんが、 長い髪のを風になびかせ、ヨハンシュト ラウスの「美しき青きドナウ」を踊るの を見て、まるで夢心地の一瞬を味わって いたものだった。 この辺のDNAは多分栄の兄弟有近、有 久から貰ったものかも知れない。 実姉、斗玖子は読書家で、晧三が病気で 寝ていると、絵のない、童話の本を枕元 に置いてくれたが、読む気にもならず、一 頁も読まなかった。 つまり情報源は「ラジオ」と親と兄姉と の言葉のやり取りだけで、文字や文章は まるでご法度だった。姉の知り合いの女 学生から貰った絵本を朝から晩まで見て いた、文字は読めない侭、絵から想像す るだけだった。 音感は敏感でラッパやハーモニカは直ぐ に覚えた。このハーモニカが後日、集団疎 開で大変役にたったものだ。芸は正に身 を助けるものと言う事をお伝えして置き ます。 大森山王と言う住宅街は、後で知ったの だが、大邸宅が多く、通っていた第三国 民学校と言うのは大森の学習院と言われ、 親御さん達も学校の成績には熱心で、そ の頃から家庭教師をつけて、お勉強、お 勉強と言う雰囲気だった。 晧三の場合は後述するが、母親も父親も 誰も勉強をしろと一言も言った事も無か った。つまり甘やかされ放題だったし、 良く言え放任主義、悪く言えば、無責任 主義だったのだろうか? 実父の栄は大坂生まれで栄の母親は山上 久乃と言って、1800年の歴史のある 海の神様住吉神社の神主の娘で大変な美 人だったと聞いている。 背が高く栄を19歳まで、大坂で育て、 築地の有近、有久と東京の姉、和田を頼 りに出て来た。 大坂の住吉神社へ行くと山上の石燈籠が 幾つも見えるから、栄は実姉の斗玖子に 「お前はそんじょそこらの何処の馬の骨 とは違うのだ」と事ある毎に言い聞かせ ていた。 この言葉には姉登久子も頭脳に沈殿して しまった。お目付け役の姉登久子は栄と の軋轢は大きかった。 大森山王の屋敷の道を挟んで正面の家の 津守さんと大変親しいくなった。津守さ んも住吉神社の宮司である事を後で知っ た。 この津守さんと姉登久子との出逢いは、 彼女の人生を大きく変えて行く事となる。 斗玖子が隆之輔の代わりに山王の家の跡 取になったのはこの津守さんとの出逢い が大きい。津守さんの実父はマツダラン プの社長で東芝の前進だ。 因果は巡ると言うが、高い所に立つと、 遠い所が見え、因果が巡るのが良く見 えるものだ。実姉登久子が家の正面の 津守さんと出会って以来、彼女の人生 は大きく変わって行った。 それは1800年の住吉神社をどっぷ りと背負って以来がらりと貫禄が出て、 ものの語り口調も変わって行った事を 付言して置く。 祖父の田中省三のDNAよりも栄えの 母親、倉野家の神道のDNAが歴史的 には圧倒している事になるのでは無 いかと思う。 晧三は兄弟4人で、長男が隆之輔、長 女が登久子、次男が皓三、次女富久子 とバランス良く整ったが、戒名を見る と、未だ上にもいたらしいので、そこ の点は現段階では割愛して先へ進ませ て頂く。 祖父は田中省三で示現流のお侍なのに その倅に当たる実父の栄は侍と言うよ りもナンパ男で、女好きで実姉がお目 付け役で、いつも監視されていた。 四畳半趣味で笑い方も「オホホっ」と 気取っていて、いけ好かない奴だった。 いけ好かない奴と言っても、パナマ帽 を被り、欧米風のハイカラ女性と船の 甲板に写っている写真など見ると、一 般的に見ると、田中省三の硬派に対し 栄の軟派で、栄えの方が今風に近いと 言える。 先日、隆之介の倅、つまり甥晃弘に、 法事であったが、彼の理想とする人物 はあの栄であって、自分も貿易業の ハイカラ男をモデルにしたいと言って いた。 男子と言うのは反面教師で、父親は面 玉のコブで反発すると言うのが通例の ような気がする。 祖父の省三が侍の硬派に対して、その 倅のの栄は軟派、栄の倅の晧三は硬派 省三のヒシャゴに当たる正晃は軟派と なるが、どうもこれはまるっきり当た っていない。 DNAで何時も頭に浮かぶのが織田信長 の11人目の男が有楽だ。似ても似つ かぬどっち付かずの世渡り上手。有楽 (ウラク)は歴史上にちゃんと、有楽 町を残しているではないか。 当てにならないのはDNAであろうか? 父親栄は省三の硬派に対して軟派と言 ったが良く覚えているが、夕方になる とオーデコロンをつけて、小指の爪は 殊更長くして、何処かへ出かけて行っ たのを覚えている。 だが、晧三が小学校4年、昭和19年 の8月の事。集団疎開へ出かける前日 の事、栄は全身血だらけになったのを、 鮮明に目に浮かぶのだ。 「血だらけになった栄」 昭和19年は大東亜戦争も雲行きは悪 くなって来たのに、ラジオ放送は勝ち 放しの景気の良いニュースばかりだった。 だが、山本元帥の死の情報依頼、俄か に東京を離れるクラスメートが多く、 暗いニュースは子供なりに肌で感じて いた。 大田区、山王小学校(旧第三国民学校) の大半は親戚へ縁故疎開で、他は集団疎 開組で静岡の藤枝の盤脚院と言うお寺へ 送られることになった。 よいよ、出発の前の日、父親、栄が横浜 中華街へ連れて行って呉れた。 あちらこちらの店を覗いて、父親の懇意 にしている店に入って肉団子を食べた。 その後、お別れの写真を撮った。その時 の自分のあんなの写真を覚えているが、 ひょろひょろと青白く、如何にも神経質 そうで想い出すのも嫌だった。 とても、後日省三のあの野心的風貌とは 似ても似つかないものだった。 その日は残暑で蒸し暑い日だった。帰宅 後、父親、栄は行水をして、一服してい ると、騒ぎが起こった。 アパートの一号室の台湾人が「火事だ!」 大声を出して栄の所へ飛んで来た。 アパートの玄関の大きなガラス戸の前に 置いてあった防火用の砂の箱を持ち上げ、 ド近眼の栄は分厚いアパートのガラス戸 に突っ込んでしまった。ガラスの破片が 体中に突き刺さり真っ赤な血で染まって しまった。 其の儘、オバチャンが近くの小山田病院 に緊急入院がさせた。 「疎開出発の朝」 朝一番で、小山田病院へ栄の怪我の見舞い とお別れも兼ねてオバチャンと出かけた。 子供心に、事もあろうに、こんな時に、 なぜ昨日のような事件が起きたのか悶々と した気持ちで父親、栄と会った。 「晧三、藤枝の駅から盤脚院迄は2里程あ るが、トラックで行く筈だが、振り落とさ れように、必ず真ん中に乗るのだぞ!と言 われた。子供心に納得した。 一緒に、行く筈だったたった一人の頼りに なる三浦英樹(後の読売広告の常務)は急 性アレルギーの為、今回は一緒に行けない と連絡が入った。当時、三浦英樹以外に付 き合いのある友人は誰も居なかったので、 神経質な晧三にとってこれ以上の心細い気 持ちはなかった。 楽天                

山上隆之輔の伝言

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