軽井沢の音楽一家をここでご紹介する
まずパバロッテイーノカルソーを家内玲子と聴きながら、横浜の絵のグループと青臭い芸術論を戦わしたころは我が人生の珠玉のひと時だったのかも知れない。
最愛の我が妻玲子は昭和11年6月4日、小生が昭和9年9月25日だから,暗い時期を共に過ごして来た。戦友と称しても良いのかも知れない。
彼女はテレビドラマのヒヨッコの舞台となった茨城の高萩、小生は都会育ちで、幼い時から、田舎の風景に恋いあこがれて育った。茨木のヒヨッコの舞台で育った家内は東京に憧れ、都会育ちは小生は田舎に憧れる。お互いに無い物ネダリだったのか。
縁があって一緒になって、夕刻、武隈山脈に日が沈むころ、未だ舗装されていない馬車道を手をつなぎカラスの鳴き声を聞き乍散歩をした頃を何故か同時に想い浮かぶのだ。
馬車道と言えば、小生が4歳の頃の大森の池上通りはまだ馬車がと通っていて馬糞があちらこちらに散らばってり、病弱な小生はオバチャンと人力車で良くホームドクターの大塚さんへ通ったものだ。
大森駅から池上駅を下り切った場所にJR(当時は国鉄省線)のガードがあり、それを潜ると大森駅の
東口に出て白木屋のデパートがあった。母親は良くそのデパートでお子様ランチを食べさせて呉れたり、屋上で豆自動車を乗せて呉れて、子供心に豆自動車がペタルを踏めば動くと言う事が楽しく夢にまで見たものだ。<<続く>>
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