恩賜のタバコ
恩賜の煙草を頂いて明日は死ぬぞと決めた夜は荒野の風も生臭くぐっと睨んだ敵空に星が瞬く二つ三つ!この時代に生まれ合わせた少年達は、こんな歌を何時の間にか頭に叩き込まれ、言葉をついて歌ったり、踊ったり出来たのだと思う。
昭和16年から昭和20の子供達は縁故疎開や集団疎開で日本列島の海から離れた山の中のお寺へ疎開させられた。海の近くは最初は太平洋岸が危なくなり、静岡の藤枝の盤脚院も空襲警報が頻繁になり防空頭巾を被ってお寺の本堂に伏せて避難したりした。
シュルシュルと音がして、真夜中なのに、昼間のように明るくなり、直後に物凄い、地響きがして、目、耳を抑えていた手を放すと、どうも近くの藤枝の茶畑に落ちたと知らされ、翌日先生の指導で焼夷弾が落ちた現場を見に言ったものだ。
太平洋岸が危なくなって来たので、翌年5月には富山の氷見へ再疎開をする事になる。子供なりに静岡と富山の県民性に触れる事になった訳だ。
小4から小5へ変わって、集団生活に慣れた事もあって、人との接し方や、感じ方も少しは大人になった訳だが、氷見のお寺の光學寺での生活は、静岡と違って、かなり慣れて来た。
光學寺の境内へ毎日のように遊びに来た「パンツお化け」が忘れられない友人の一人となった。
挙国一致で子供達は軍国少年として仕立てらあれていた。
集団疎開経験者の語りベが語る教育論
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